Facebookのいやなとこ
友人の「私のムービー」をみるのも楽しいし
知人が「私のムービー」をやってるのもいい
ではなぜ違和感をおぼえるかというと、
それが与えられたおもちゃだからだ。
わたしたちは、手紙、詩、短歌、俳句、小説、絵画、音楽、映像など、
さまざまな表現方法を持っている。
それらにはそれぞれ形式があり、その範疇で、
どのように自分の考えや想いを表現するかというところに
面白味をみいだしてきた。
自らの内面をみつめ、自分の感じ考えている
もやもやしたものを、
絵にし、音にし、言葉にしてきた。
このまま書くと長くなるので、
とっても省略すると、要するに、
自分でやろうとおもい、
自分でつくって、
自分で発表してきた。
一方、Facebookは、
Facebookがやろうとしていることを、
人々を使って、
仕組みを用意して人々に発表させる、
という図式のようにおもえる。
フォーマットを用意されて、
別にそこまで望んでないのに多くの人の目にさらされる。
私たちの人生がコンテンツとして使われ、
Facebookの思い描いた状況が表現される。
57577のルール、形式を決めるのはFacebookであり、
私たちの人生が並び替えられて春だからこれを与えて、
夏だからこれを与えてとされる。
Facebookにとって、
私たちの人生が、
絵であり、音であり、言葉なのだ。
無料で使わせていただいてるので、
それで広告がどうのこうのということまでは知らない。
そういうものもなかったら、
そもそもこんな面倒くさいことやらないだろうし
あってしかるべきだとおもう。
でも、これで遊びなさいね、
とおもちゃを与えられている気分なんです。
上岡龍太郎氏が健在ならば、
プロデューサーとガチで喧嘩するレベルやで、これしかし。
くわえて、こういう批判さえも取りこみ
コンテンツにしてしまうのが、
Facebookのすごいところである。