夢に忙しくて大切なことを見落としてる
楽しくて長いしてしまい、晩飯までごちそうになることに。いま気づいたけどお世話になりすぎてないか、これ?まあ、やさしいご夫婦なので大丈夫でしょう。夕飯はとれたてトマトとカレーです。かにがはいってた。
ここにきた目的というか、ぼんやり考えていたのは、最初いったとおり、システムのなかにいた人が、そこから飛び出してどんな考え方、暮らしをしているのかみてみたかったから。やっぱり長いこと話していないにもかかわらず、同じようなことに着目し、それを実行していたんだなとこの2日間を通しておもった。
「それぞれの夢に忙しくて大切なことを見落としてる」 そんな風に最近つよくおもうようになった。自分のやりたいことをやることはとてもよいことだし、それはたしかにたのしく暮らしていくコツだとおもう。しかし、その夢自体が幻想みたいなものだったり、誰かから与えられたものだったり、もっと勘ぐると悪意をもって仕組まれたりする可能性だってあるようだ。はっきりとはいわないけれど、冷静に考えるとどうもおかしいことがおおい。「なんでそんな馬鹿なことするんだろう?」と昔はおもっていたけれど、「不利益になる結果にすることが、誰かの利益になる」ということなのだ。
いろんな歴史を調べたり、テレビから与えられる情報を鵜呑みにするのではなくて、情報のソースに近づいて信頼できる人をみつけようとしたり、ある考えが常識になってきたら、その逆の説をとなえている人はいないのだろうか?と探したりする。そんなことをしていると、情報過多になってきて、どれが本当かわからなくなる。
○○は危険だよ、という説。そんなことないよという説。その奥にある真実。
あいつは悪者だよという説。あいつは善人だよという説。その奥にある真実。
さて、なにを信じたらよいのだろうか?
答えはいつもシンプルなのだろうか。いまわかっている信じてよいものは、やたらおいしいトマトの味。友人との会話。なんでもないトランプの時間。大好きな人とすごす時間。散歩。風が吹いてきたときの心地よさ。赤ちゃんと遊ぶ楽しさ。
それを壊そうとする思想やら対立やら事件やら団体やら局面やら活動やら。さてどうやって対抗していったらいいのだろう?とおもうわけです。ああ雲一つない空を見上げるだけで暮らしていけたらいいのだけれど。