豊かな魚


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(OLYMPUS E-520 & PANASONIC LEICA D SUMMILUX 25mm F1.4)

うまれたのが三重県の伊勢志摩という、15分もあるけば海にでれる場所だったので、ちいさいころから魚をたべてそだった。「○○のおじちゃんが昨日釣ってきたんやって」という具合に魚はお裾分けされるものだとずっとおもっていた。

しかし、いまは京都市内に暮らしており、小さい頃の環境がいかに恵まれていたか、ようやくわかるようになった。一度、スーパーにうっている魚を買ってみたことがあるのだけど、漁港が町のなかにあるような人間からすれば、それは食べれるような代物におもえなかった。きついいいかたになるけど、捨てるような魚を食べているような感覚。

たまたま京都の一流懐石料理をたべる機会もあった。一食ウン万円という世界の料理。それは技をもって素材をすばらしく調理している料理でとても目に鮮やかだった。しかし、ここでもちいさい頃から食べて、当たり前だと思っていたレベルの魚は食べられなかった。

新鮮すぎる魚は、身がボクボクして食べづらい。なんだか固いのだ。でも、京都で食べる魚はたいていの場合、ふにゃふにゃのゴムみたいな印象しかない。たまに、おいしいお刺身を妥当な値段で食べさせてくれるお店もあるものの、それは本当にまれだ。

今回たずねた京都府舞鶴は同じ京都といえど、海に面している町だ。友人のお嫁さんのお父さんが釣ってきた鯛をくれたから食べようという話になっていた。さすがに鯛をもらったことはない。海辺の町というのは本当にすごいな。

海や山という自然がもたらしてくれる恵みというのは、なかなか金額に換算しづらいほどの豊かさを与えてくれるのだなあとおもった。食卓は、魚がおいしいという会話でもちきりになった。「ねえ、魚で一番おいしい場所はどこだか知ってる?」という問いかけ。しばらくして「ほっぺたのところでしょ」という返答。魚のおいしい場所で育つ子供は、そういうこともちゃんと知っているのだろう。