京都:traction cafe

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友達とカフェにいってしゃべる。なんといいますか月2か3くらいでしゃべらないと死ぬんじゃないか?という気がしております。いろいろたわいもないことから真剣なことまで話してみると精神衛生上すっきりするという効果と、いままでぼんやり考えていたことがまとまるという効果を知っているので意識的に長時間話す機会を作るようにしています。

今回は久しぶりにトラクションカフェへ。ここはお気に入りのひとつであります。理由はすべてにおいて店主のこだわりがあらわれていることと飯がうまいことです。具体的にいうとコーヒーカップはフランスの業務用食器で有名なアルコロック(最近、生産をストップした製品がたくさんあってちょっと心配しております。)、なにげなく好きなアーティストBenny SingsやTouchを流す、などなど、ひとつひとつ気に入ったものばかりを集めたんです、という姿勢が好きなのです。もちろん趣味があっているからでしょうが。

あとご飯も京都のカフェのなかで1、2を争うくらいおいしいです。たぶん奥さんがキッチンを担当しているとおもうのですが、この人の作る料理はなんでもうまいなあーとおもいます。これも単に自分の味の好みとあっているだけかもしれないけどうまい。かっこうだけで中身がともなっていない店がたくさんある中で、ふつうに飲食店として成立している気がします。これ重要。

話す相手も大切なのかなということが話題にのぼっていました。べつだん意識しているわけではなかったのですが言われてみたらそうかもしれない。考えごとが好きな人・なにかをやろうという気がある人とは話していて面白いし勉強になるし、おお!そんな見方がありますか!と感心、発見があります。でもただ愚痴をいっている人と問題を解決する気のない人と話していてもちょっと辛いなというのはあるかもしれない、たしかに。まあどっちでもいいような気もしますが。おもしろかったら愚痴でも悪口でもいいんですけどね。

話していて面白い人というのを分析してみて、面白い人とばかり話しにいったら効率いいのかもしれないけれど、そう簡単にもいかないのです。なんでかといいますと一番勉強になるのは、こちらがイライラする人だと去年くらいに気づいたからです。こいつほんまにわかってないわ!とか、ありえへん!考えられへん!とおもう人こそ学ぶべきところがあると。

どんな性格や性質をもっていようが、その人はうまく世の中わたっていっているわけで、なんらかの良さと悪さをもっている。自分にとって考えられない!という性質の人は、まさしく「考えがおよばなかった良さ」をもっている可能性が大いにあるなとおもったのです。

同じような性質の人とは、そうだよねーわかるわかると意思疎通がしやすいのですが、まったく違った性質の人と分かり合えないからこそうまれるコミュニケーションがあるのです。自分の考えを伝えたくて説明するけれど、相手はわかってくれないのでまた説明する。たしかにイライラする作業ですが、それは考えを磨いている作業のようなものなのかなとおもいます。説明の向こう側にはより洗練された意見があると。

ちょっと違うかもしれないけれど英語圏の人と話しているとすごくこのことを意識します。日本人同士って比較的、「ああ、そういうことね」みたいな共通認識があるというか、まあそこまで深くつっこまずにわかったことにしよう、というような許容幅が大きい気がするのですが、英語圏の人に説明するときは、なんで?どういう目的で?具体的にどういうこと?え?全然わからないよ、とかなりわかるまで説明をすることになります。

面倒な作業といえますが、やっぱり会話することでぼんやり考えていたことがブラッシュアップされるわけなので、これはこれでありなのではないだろうかとおもいます。なにがいいたいか全くわかりませんが、とりあえずしゃべるのは好きだということでしめておきたいとおもいます。では。

(サラダの内容:たぶん、レタス ルッコラ 赤カブ プチトマト たまねぎ かいわれ)