topへ > お話 >| 前へはふう 代償行為としてのweb 鍋と猫とだしまき次へ

代償行為としてのweb

こんにちは こんばんは 今日も読みにきてくれてありがとう。
先日ごはんを食べているときに、
ふとなんで毎日毎日こうやって文書を書くのだろう?
と疑問におもいました。

無理しているわけではないけれど、決して簡単に毎日かけるわけではない。
なのになんでこんな面倒なことするんだろう?と自分で不思議におもったわけです。

考えてみると、この文章を書くというのは、代償行為なのかもしれません。

女の子は日々あった出来事を、とにかく誰かに、家族とか彼氏に、聞いてほしい
ということをよくききます。解決策がほしいわけではなくただ聞いてほしい。共感してほしい。
聞いてもらうことである種すっきりするのだそうです。

自分のことを考えてみると、ふだん体験した出来事を話すことってあまりないのです。
それに出来事を話こと自体が得意ではないんです。
たいていの男性はそうなんじゃないでしょうか。

男性は、議論するのや問題を解決する会話なんかが好きだっていわれます。
そして、じぶんの好きなことやこだわりのある物事について語るのは好きそうだけど、
「今日○○があって、誰ダレが△した」という出来事を話すのはあまり得意ではない気がするのです。

そうだとしても、いろんなことを日々体験するわけで、
その体験のなかで感じたこととか考えたことを誰かに話したい欲求みたいなものが
自分のなかにたまっていってるのかもしれません。

なんとなく話たいとおもうけど、言葉にしてみると、うまく伝えられなくてはがゆいです。
口下手なんです。不器用ですから。

でも文章ならある程度ゆっくりと時間をとって表現できるのです。
なので、文章を書くということで、聞いてほしい欲求を解消しているのかもしれない
とふとおもいました。軽くおもっただけなのであたっているかどうかはわかんないけど。

こうやって書いてみて驚くのは、自分がいろんなことを感じているんだなと再認識できることと、
書くことによって、自分の考えがある程度まとまってくるというか、つみあがっていくことです。

たいていの場合、書きはじめのときには、なんにも考えてないんだけど、
だんだんと自分の意見のようなものが見えてくるのです。

というわけで、文書を書くのは面倒だけど、自分なりにうまく書けたときの喜びが忘れられなくて
またこうして文章を書くわけです。

面白い話ができる時や有益な話ができるときの方が少ないとはおもいますが
ぼくにとって、これはあなたとの秘密のコミュニケーションのようなものなので
コソコソと続けていこうとおもっていますのでよろしくお願いします。



topへ > お話 >| 前へはふう 代償行為としてのweb 鍋と猫とだしまき次へ