祇王寺まで散歩

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せっかく嵐山まで来たのだからすぐに帰ってはもったいないとおもい、もう少しぶらぶらすることにした。天龍寺というお寺の紅葉もきれいと聞いていたんだけど、もう少し遠くまで歩きたかったので地図をみて祇王寺までいくことにした。

途中に出店があり、ソフトクリームやみたらし団子や餅なんかが売っていた。とても食べたかったけれど、よく見てみると出店はまだ開店準備の最中だったので買うことができない。もう少しで開店時間なので待とうかなとおもったけど、先をいそぐことにした。

竹林を抜けて、線路をわたり、祇王寺の方向にむかう。といっても地図は完璧に頭に入ってないし、道を詳しく知っているわけではないので、かなり適当に行き当たりばったりにあるく。まあ間違ったら間違ったでいいんじゃないかな、という気持ちだった。

すると、どうやら来た道は正解だったらしく、看板に祇王寺の文字。森のなかに小さい寺があるようなかたちになっており、とてもつつましいというか、なんとも形容しがたい姿が目にはいった。

一度は平清盛からの寵愛を受けたものの、こんな寂れた寺に祇王と仏御前が住んでいたんだ。それは幸せな人生なんだろうか?それとも不幸な人生なんだろうか?そんな風におもったけど、どちらかというと幸せだったんじゃないかなと勝手に推測した。平清盛の世話になっていたころは、贅沢な暮らしだったろうけど、しがらみがあり、気を使い、なにかと窮屈な生活だったのではないか?それがこうして自然以外なにもないような山奥に暮らすようになって、本当に大切なものを見つめながら過ごしたのではないだろうか?そんな風におもえた。

まあ、逆に祇王と仏御前、ふたりであの頃はよかった、平清盛といたころは最高だったね、美味しいものはたくさん食べれたし、住んでいるとこは豪華だったし、なによりみんなチヤホヤしれくれたしね。それがなんでこんな山奥にいなきゃなんないのよ、仏御前おまえのせいだろ!やめておくれ祇王!と喧嘩しながら、未練タラタラで生きていたのなら、それはそれで人間くさくて素敵だとおもうけれど。

などと、どうでもいい妄想に浸りながら静かな時間をすごした。
そして、もう少し散歩をつづけた。

つづく