【考】可能性と決断と納得と柔軟性

2006年10月25日02:23


それは秋のすんだ空気につつまれた公園でのこと。ぼくは友人と話していた。その友人は、これからどうしていきたいの?とぼくにたずねた。とっさに「どんどん自由になっていきたい」と答えた。

それはぼくの本心からでた言葉だったんだけど、なんだか少し表現したりないような、少し嘘をついたような、髪の毛一本ほどの違和感をかんじていた。そこから、またいつもの癖で、ぼくはどうしていきたいんだろう?と考える日々がはじまった。

しばらくどのように生きていきたいか考えたすえ、思い浮かんだのは「柔軟に」という単語だった。英語でいうflexibleといったほうが感覚的には近いけど。

歳を重ねるにつれて、ぼくは自分自身に制限をつけている気がする。職業、可能性、住むところ、収入、能力、ありとあらゆるものに対して、自分の枠、考えのようなものを作って生活している気がする。

そうしてしまうのは、制限することや断定することが、ある部分では必要なことだからだ。自分がもっている可能性をあえて限定し、制限し、能力や時間を自分の決めたことについやすと決めることが、自分を行動させるときには必要なんだ。少なくとも僕の場合。

いつまでも可能性を残すことは、逆を返せば何から逃げている行為であるのだとおもうのだ。「可能性の留保」からはなにも生まれない。

こういうと、わたしは自分の可能性を信じています、なんて反論されてしまいそうだ。先天的には僕ももちろん自分の可能性を信じるほうだ。馬鹿みた いに聞こえるかもしれないけど、やったらなんでもできるだろう、と楽天的に考えている。でも、なにかをやろうとおもったら、なにかをあきらめないといけな い。ある対象にピントをあわせたら、ほかの物体はぼやけて見えてしまうはずだと考えているのだ。

さまざまな可能性の中から、自分の心と頭、そして大切な人たちが喜ぶであろう道を選び、それをやる、と決めて行動する。シンプルだけど、これが常にできている人っていうのはなかなか少ないのではないかとおもう。
多くのひとが迷ったり、ほかの可能性を探ったりしているのではないだろうか?

話をもとにもどすと、ぼくは柔軟に生きていきたいとおもっている。

これからぼくはいま考えていることをやっていくだろうし、いま考えてもいないこともやっていくだろう。 もしかしたらいま考えていることをやめることだってありえる。未来の大半は自分の決定によって作っていけるものだとおもっているけれど、不確定要素がおお すぎて、なにからなにまで完璧に決めれないでいる。(またそんなふうにはしたくもない)

そんな中で、その都度その都度、納得がいく決定をしていきたい。その納得がいく決定を可能にするのが柔軟性だと考えているのだ。


たとえば、それは自分がどのように時間を使うのかということに関して
たとえば、それは自分の収入をいくらにするのかということに関して
たとえば、それは自分が誰とともに過ごすのかということに関して
たとえば、それは自分がどこに住むのかということに関して
たとえば、それは自分がどんな仕事をして暮らすのかということに関して
たとえば、それは自分が誰に喜んでもらうのかということに関して
たとえば、それは自分がどのような影響を与えるのかということに関して


自分が納得できないことは、すべて納得いくまで求めつづけるとおもう。
だからこそ、ぼくはこんな風にゆれる。

可能性を残そうとすると決められなくて弱くなる。
決めることは可能性を制約することにつながる。

その間でバランスをとりながら、なるだけ自分が「ああ、なんかいいな」とおもえる瞬間の総量を増やしていこうとおもっているのです。

だから、ぼくが決めることはなるべく制約をうまないことにしようと決めている。

うーん、なんてわかりづらいシメの言葉なんだろう...
しばらく考えてみて、こんな風な意見にたどりついたんだけど、これっておかしいのだろうか?

まあ、ひとことで言いかえると、「おもろかったらいい」ってことなんだけど、これじゃあ身もふたもないよね...