ハイネケン、プリーズ

2007年05月10日21:50

階段をのぼるとひとごみがみえた。

すでに店内は満席の状態だった。ほとんどの人は手にハイネケンやカシスオレンジなどの飲み物を持っていた。無意味に繰り返される乾杯の音、興奮気 味の声、その場の全てがすこしだけうわついていた。まあ、ほとんどの人は酔っ払っているんだから無理もない。そして、その日はお祭りだったのだから。

僕は人のあいだをすりぬけて、顔なじみのミュージシャンに挨拶をする。
「来たよ!」とかるく合図したあとで、自分がすわるための席を探す。
運よく僕は出演者を正面からみることができる位置に空席をみつけた。


毎年、ゴールデンウィークに行われるJAZZのお祭りに僕はやってきていた。僕が住んでいるところから電車で15分くらい離れた街でのお話。その お祭りが行われる2日間は、街中のいたるところで、カフェ、レストラン、バー、ライブハウス、そして劇場で、JAZZの演奏が行われる。


楽しみにしていた音楽が流れだす。それまで店内で幅を利かせていた喧騒は、3人のミュージシャンがつむぐ音を聴こうとちいさくなる。

ボーカルの女性がクールに歌う。まるで彼女に個人的に語りかけられているかのような錯覚におちいる。彼女は歌いながら、聴き手ひとりひとりに目配せをしているかのようにみえる。

あれは意識してやっているんだろうか?それとも長くライブをしているうちに自然に身についたのだろうか?なんて僕は考える。なんにせよ、彼女はきちんとその場とコミュニケイトする術を持っているんだな、とおもう。


そんな僕にも新たなコミュニケイションがはじまる。
きっきけは彼の言葉だった。

「ちょっと、それを読ませてもらってもいいですか?」と彼はいった。

僕の右隣にはTシャツをラフに着て、キャップをかぶった白人の男性が座っていた。彼はひとりでハイネケンを飲んでいる。なぜだか知らないけど、どことなく居心地がわるそうだった。そんな彼が、ライブ情報が書いてある、お祭りのプログラム冊子をみせてくれと僕にたのんだ。

もちろん、といって僕は冊子を彼にわたす。
外国の人って、こういう話しかける口実を作るのがうまい。たぶん、あちらの義務教育には「バーで暇なときに、適当な喋り相手をみつける技術」というようなクラスがあるんじゃないか?と僕はおもう。たぶん、それは彼らにとって必須科目なのだ。

つたない英語でやりとりしていると、彼が東京から来たこと、カナダ人であること、前日は神戸にいき、その日には京都の二条城にいった、ということ がわかる。しかし、なぜ彼がJAZZのお祭りに参加しているのかわからない。すごく有名なJAZZのアーティストの話をふってみても、彼はてんで話しに のってこない。どう考えてもJAZZが好きだとはおもえない。彼はあいかわらず、しょんぼりしているようにみえる。

「どこか安く泊まれる宿を知らない?今夜、泊まるところがないんだ」
 と彼はいう。

「そのへんの女の子に声をかけたらいいんじゃない?たぶん
 もっとも安く泊まれるよ」と、僕は反射的に答える。

その返答に彼はすこし笑顔をみせる。それから急に彼は親しみをもって僕に接してくれる。ハイネケンの瓶をもちあげ、彼は乾杯しようという合図をとる。僕の瓶は空っぽだったので、ハイネケンをもう一杯注文する。
そして乾杯。だけど、僕はなにに乾杯しているのか全然わからない。


ミュージシャンたちは、マリーナ・ショウの4ビートの曲を演奏する。
僕はうっとりしながら、彼らが曲のダイナミクスをなめらかにコントロールするのを聴いている。彼らは立派にソーシャル・サービスにいそしむ。そして、それが社会福祉で終わらないことを、僕は願う。

素晴らしい演奏のあいまに、彼の携帯電話がなった。その電話のディスプレイには女性の顔が表示される。そして、誰だか知らない女の人と話をするために彼は外に出ていった。


ボーカルの女性は、I Didn't Know What Time It Wasと歌う。
そのメロディーラインは僕にサラ・ボーンを思いださせた。
僕は左隣の人のウィルコムに目をやり、関係ないけど今は18時28分だよと
叫びたくなった。もちろん叫ばなかったけれど。


そうこうしている間に、計画のない旅をしている男がもどってきた。
僕は話すことがないので、「彼女からの電話だったの?」とたずねてみた。

「実は...別れたばっかりなんだ、昨日」と彼はいった。
「おめでとう」と僕はいった。

彼は黙った。そして見るでもなく窓のほうをながめていた。その表情は
なにかを探しているようだった。もしくは、なにかを思いだしているようだった。


「どうして別れたの?」と僕はたずねてみた。

「彼女は英語があんまりうまくなくて、コミュニケーションがうまくとれなかったんだ」と彼はいった。「一緒に神戸まで旅行に来ていたんだけど、昨日の夜けんかになって、今朝、彼女は東京に帰ってしまったんだ。」


それで、この男は計画のない旅をしているのかと僕は納得した。

「だいたい言葉が通じたって、気持ちが通じるとは限らないのに
 言葉が通じないとなると、なおさらだよね」と僕はいった。

店内は最後の曲を演奏し終えたミュージシャンを
たたえる拍手でいっぱいだった。

「おれって何歳にみえる?」と彼は僕にたずねた。

その質問はうっとうしい、と冗談として彼に伝えたかったけど、
うまく伝えられそうにないので、25歳くらいかなと適当に答えた。

「おれは21歳なんだ、でも、彼女は30歳なんだ」と彼はいった。
「それに、あと一ヶ月したらカナダに帰らなきゃならないんだ」

「じゃあ、まあ、いいタイミングだったんじゃない?
 遠距離恋愛をしなくてよかったんだし。」と僕はいった。
「つきあうということが何なのかわからなくなってこない?
 遠距離恋愛をしていると」

ふと気づくと、さきほど演奏をおえたミュージシャン達は
いなくなっていた。店内の客も入れかわっていた。
僕はJAZZの演奏をたのしみに来ていることをおもいだした。

「じゃあ、そろそろ行かないと」と僕はいった。

そして、僕らはふたたびハイネケンで乾杯した。
あの乾杯がなにを祝福していたかのかなんて、いまも全然わからない。