つかみたい

世の中には物事を断定できる人と、そうでない人がいるような気がしないでもないくない。というあいまいな書き出しで文章をはじめるのは、ぼくが断定できない側の人間だからです。

まあ、日々いろんなことに接するわけですが、出来事に対して、いろんな角度から意見をもってしまい、どれが自分の意見なのかわからなくなるのです。肯定的な意見と否定的な意見と、善人みたいな意見と悪魔みたいな異見と、感情的な意見と理性的な意見が、同時にワッとでてきて、あれ?俺は本当はどれを考えているんだろう?と選択に困る。

たまに、○○はこうです。と言い切れる人をみると、すがすがしささえかんじます。いいなああいうの。言い切れる人はそれ以外の可能性を知らないのか、もしくは知ったうえで断定しているのかわからないけど、とにかく勢いはある気がする。言い切れない側の人間としてはそれがうらやましいようなうらやましくない ような。つねにいろんな可能性や物事を見る視点のなかで決めかねているので、ずばりといってくれる人をみると影響されてしまったりする。

断定的な人の書いたものを読んでいると、論旨というか主義主張がみえて、正解不正解にかかわらず、はあそうか、と関心してしまう。そいうい文章に今朝ふれて、ふとおもったんだけど、自分が書くという行為をするのは、自分がどういう意見を持っているのか、つかめていないので書きながらそれを探っているところがある。

他人の夢の話を聞かされることがよっぽどのことがない限り苦痛なのと同じように、他人の考える過程を読むことは楽しいとは言いがたい経験のようにおもう。 けれど、その思考の過程が長年うまれもったパターンなので、これを活かす方向に進むのがよろしいのではないだろうかとおもったりおもわなかったりしないでもなくない。