月と6ペンス
ドアをあけたとき店主は出てゆく客の会計をしているところだった。勘定を伝えるその声のトーンがとても丁寧だなとおもった。機械的な"ありがとうございます"ではなくて、本心から来てくれてありがとうと伝えたくていっているような響きだった。
店内を見渡すと窓にそって文庫本が並べられている。どうぞ、好きなだけ読んでください、といわんばかりに。奥の窓際の席に座りコーヒーを頼む。オーダーしてから、目の前においてある本を手にとる。その本は短編集だったので、すこしの間でも読み進めることができるなとおもう。ほんの数分、そう、たぶんコーヒーを待っている間にもひとつの物語が読めてしまう。
「お会計お願いします。」とコーヒーにお湯を注いでいる店主に、帰る客がいう。
「ちょっとだけお待ちください。」と店主が、客の方をみて申し訳なさそうにいう。
いまはコーヒーをいれる工程の中でとても大切なところなんだという真剣さで、先の細くなった銀色のドリップポットをかたむけ、店主は集中しながらお湯を一定のスピードで丁寧に注ぐ。そして10秒もたたないうちに、待たせていた客のところにいき会計をする。お待たせして本当に申し訳ないです、というかんじのトーンで、店主は客にありがとうございますという。
運ばれてきたコーヒーはとても濃厚な味がした。BGMとして三拍子の曲が薄く流れていて、客もたいていは本を読んだりしているので店内はほどよく静か。なんだか心地よくなった。どこかで味わったことのある雰囲気だな、とぼんやりおもいながら、コーヒーを楽しむ。ああ、そうだ、図書館に似ている!と自分の中でつぶやいて、あたりを見渡す。
そう、窓際にはさまざまなジャンルの本が立てかけて並べられている。村上春樹のパン屋再襲撃、川上弘美の神様、ヘミングウェイの日はまた昇る、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟。ここですこし打算的になり、この店を使う計画を考える。
休みの日の遅めの午前中か早めの午後に店に入る。コーヒーを頼んでじっくり好きな本を読む。そんなの家でやればいいのでは?と考えてみるけど、家での読書とは違う感覚で本を読める気がする。場所も繁華街の喧騒から離れて静かだし、純粋に本と向き合えるような空間のようにおもえた。もちろん、自分の本を持ち込んでもいいわけだし。
帰り際に店主とすこしだけ会話する。店主はパリやポルトガル旅行をしたことがあるらしく、いつかトルコからポルトガルにヨーロッパを横断する旅がしたいのだそうだ。店内にはシンプルで趣味のいい音楽と不思議な空気感に包まれていた。お気に入りのカフェを見つけたとき、応援の意味を込めてコーヒーを一杯多く頼む。今回もいつもより余計にコーヒー代を支払い店を出た。