役割分担
- 2006年07月21日23:47
「真実をはなそう」彼はそういってこちらをむいた。
それは僕らのゲームがはじまる合言葉だった。
「そんなかっこうしていると酔うよ」と僕は彼にいった。
僕らはその日バスにのっていた。
目的地までにはあと1時間弱かかりそうだった。
そんなに長くバスに乗るなんて全くの予想外で、
ふたりとも暇をもてあましていた。
だから僕らはとにかくなんでもいいから話しつづけることにした。
僕らはそれぞれ二人がけの席にひとりずつ座っていた。
バスのなかには、運転手と僕らふたり、
そして前のほうの席に杖をもったおばあさんが乗っていた。
「とにかく、重要なのは飯をうまくつくることだ」と彼はいった。
「ほんと、"ああ、いい女だな"と思う瞬間はそりゃいくつもあるけどさ、
やっぱりうまい飯っていうのは大きな要因だよな」と彼はつづけた。
「まあ、そうだね」と僕はいった。
「俺なんか、飯がうまかったことで"イワサレタ"ことがいっぱいあったしな」
と彼がいった。
「たとえば?」と僕はたずねた。
「たとえば? たとえばさ、長いこと女と付き合っててさ、
もう別れようかなと思っているとするだろ?
べつに彼女のなにが悪いってわけじゃなくて、
なんとなく、もういいかな、と思うとき。そういうのってわかるだろ?
そんなときにさ、まあ、彼女の寝顔なんてみながらおもうわけさ、
べつに別れたって別れなくたってどっちでもいいけど、
こいつの作る飯はうまいよなってな。」と彼はいった。
「つまりその彼女の作るご飯がおいしいから別れられないってこと?」
と僕はたずねた。
「まあ、それ以外にも、いいところがいっぱいある場合だよ、俺がいってるのは
あくまでどうしようか迷っているとき。」と彼はいった。
「なにも飯だけが全てを支配しているっていってるわけじゃない。
俺だって胃袋でできてるわけじゃないんだからさ。
でも、長くつき合ってると、良いところも悪いこともみえてくるだろ?
そのなかで岐路にたつわけだ。
これからこいつと関係をつづけていくか、
それともここでスパッと別れて次の女を探すかってね。
そんなときにさ、ふと思うわけ。
こいつが作る飯が食えなくなるのはいやだなってな。
まさに胃袋を鷲づかみにされてる感覚。
ぎりぎりのところにたって判断するとき、
重要になってくるのはこまごましたことじゃないんだよ。
自分にとってのより原始的な部分がかなめになってくるわけ、
そのひとつが俺にとっては飯なわけ、まあ命綱みたいなもんさ。」
「でも、結局別れたわけでしょ、そのとき。」と僕はいった。
「そうだな、別れたな。」と彼はいって笑った。
"作り手も受け手をえらぶ"ということばが、
ふと頭をよぎったが、それはいわないでおいた。
「でも、たしかにご飯っていうのは、重要な武器というか、ツールというか、
なんだろう、思いやりをあらわす手段になってくれるよね。」と僕はいった。
「たとえば、まだ付きあいが浅いころに、
彼女が部屋に泊まっていくことになるじゃない?
ふたりで夜通し、えーと"モモ太郎電鉄"とかしてね。
その次の日の朝に、こちらがご飯とかを用意しておくと
ものすごく喜ばれるよね。」
「そうだな、それもたまにはいいかもな」と彼はいった。
「そう、たまにはいい」と僕はいった。
「結局な、他のもので代えがきかないんだな、飯ってのわ。」と彼がいった。
「掃除・洗濯ができるとするだろ、部屋中掃除がきれいにできたって、
洗濯してシャツがパリパリに仕上がってきたって、
それでうまい飯とつりあうか?
飯を食べた後に食器なんかを洗ってくれる、
飯を作るのと片付けをする、これでつりあうか?
飯を作ることはさ、収入をガッポリ稼ぐとか、
もうわけのわからないくらい盲目的に惹かれてしまうとか、
体の相性がいいとか、心の支えになってくれるとか、
それくらい強いものがないと、天秤はつりあわないわけだ。
そう思わないか?」
「それって、べつに女性にだけいってるんじゃないよね」と僕はいった。
「つまり、女性が全員ご飯をうまく作れないとだめっていってるんじゃないよね。
もしそうなら、たぶん、
"そんなにおいしいご飯がたべたいならコックとつきあえばいいじゃない!"
とかいわれそうじゃない?」
「もちろん、ちがう。」と彼がいった。
「たしかに俺は、女は飯を作れた方がいいと思ってる。
でも、これはけっきょく家庭の機能の問題だ。なあ、だってそうだろ、
それなりの収入、おたがいの人間関係が良好であること、
家事やらなんやらひっくるめて家の中でやるべきことはいっぱいあるだろ。
けれど、飯を作るってことはそれらの中でも重要な位置にあるんだ
ってことがいいたいわけさ、うまい飯を作る体力を養えってこと。
だから、俺だって飯を作るわけさ。面倒でもひとつの修行だと思って」
「つまり、男でも女でもおいしいご飯を作れる人が
家庭に最低ひとりいた方がいいってこと?
男だからこれ、女だからこれをやらなくちゃだめっていうんじゃなくて?」
と僕はいった。
「それなら賛成だよ。うん、いまのはだいぶんおもしろかったよ。
まあちょっと極端なところがあるにせよ。
その調子でいけばクッキングスクールの営業の仕事もできるんじゃない。」
「じゃあ、今度は"男も女も飯なんか作れなくてもいい"ってのをやろう」
と彼がいった。「どうする、今度は俺が質問役をやろうか?」
そういっていたものの、
僕はその後バスの心地よいゆれのせいで眠ってしまった。
眠っているあいだに夢をみた。
僕は鎖につながれていた。鷲が僕の胃袋をくちばしでつついていた。
目覚めた僕はすごく嫌な気分になりながら、
前に座っている彼がぼんやり外を眺めているのをみた。
僕は彼の肩に手をおいた。
そして「真実を話そう」といった。