ささやかで個人的な戦い
- 2006年08月29日00:02
平和な時代です。
いろんな不安はあるものの、
それなりに平和に大勢の人が暮らしているようです。
平和な時代です。
悲しいことや取り返しのつかないことはあるものの
それなりに大勢の人が前を向いて生きてます。
話はとつぜん変わるんですが、
僕のおじいちゃんには、"戦友"という名の友達がいるらしい。
その方々に直接お会いしたことはないんだけど、
おじいちゃんの様子から、彼らがおじいちゃんにとって
特別な存在であることをなんとなくかんじます。
誰かの都合で、文字どおり生死をかけてともに戦った。
それは、なんともいえない強い結びつきを彼らにもたらしたんでしょう。
もちろん、戦争にはいきたくないです。
だって、痛いのはいやだから。
人が痛いのも、自分が痛いのもいやです。
でも、そういう逆境を経て、強い結びつきをえるということは
ある種のしあわせではないか、とおもうんです。
平和な時代です。
たしかに、今はこんなに平和だけど
僕らはいろんなことと戦っています。
それは、誰かを傷つけるような戦いではなくて
なんとか、自分のやりたいことをやっていこうという
ささやかで個人的な戦いです。
生きるか死ぬかというのとは違うけど、
それは、戦争にくらべたら笑っちゃうくらいの戦いかもしれないけど
やっぱり、いろいろ辛いこともあるし大変なのです。
自分に負けたり、人にやいやい言われたり、
力が足りなかったり、なにをしていいのかわからなかったり
歯車がかみ合わなかったり、ずっと同じままだったり
なかなか結果がでなかったり、機会を逃したり
そんなわけで、ささやかで個人的な戦いの時代です。
それぞれ、むかっている方角は違うかもしれないし
思っていることも違うかもしれない。
でも、あたりを見回すと常にだれかが、
自分のやりたいことをやっていこうと努力しています。
そんな頑張っている人に触れると、
ぼくは戦友をえた気分になるのです。
助けられたとき
久しぶりにメールが来たとき
頑張っている噂を耳にしたとき
朝まで話しあったとき
ぼくは戦友をえた気分になるのです。
たとえ、その人が遠くにいても
たとえ、その人がいまは少し休んでいても
たとえ、その人と分かりあえなくなっても
ぼくは戦友をえた気分になるのです。
いまおのおのがどんな状態であれ
僕らはそれぞれが行きたいと願った場所にたどり着くでしょう。
願わくば、そこが納得のいく場所であってほしいとおもいます。
そして、何年か時間がたって、ひさしぶりに集まったとき
「あのときの、お前はさあ、、、」という風にまた話たいです。
そんな戦友がいるということは、
ある種のしあわせである、と僕はおもうのです。