焼かれた卵

2006年11月04日04:00


この世でもっともかんたんな料理のひとつは目玉焼きである。

フライパンを火にかけ、油をそそぎ、そこに卵を落とす。
そして、十分に熱してから、お皿にうつす。
たった、これだけの作業工程で完成する料理である。

途中で水をくわえて、ふたをし、半熟状態にする、
という高度な技術を駆使するひともいるけど、
基本的に目玉焼きは焼くだけで完成する。

目玉焼きが失敗する可能性はかぎりなく低い。
焼きすぎて目玉焼きの底面が焦げすぎないかぎり
目玉焼きは失敗したことにならない。

たまに、黄身の部分がフライパンで熱している際に
つぶれてしまうこともあるけれど、そしらぬふりをして、
強引にそのまま火にかけつづければ、黄身はそこはかとなく凝固して
「黄身がつぶれちゃった目玉焼き」として完成してくれる。
気分的に満たされないかもしれないけど、黄身がつぶれていても
つぶれていなくても、味にさほどかわりはない。


そんな、この世でもっともかんたんな料理のひとつである目玉焼きだけど
それをどう食べるかという問いに答えるのは、それほどかんたんではない。

ぼくの家庭で、家族のひとたちがなんの疑問もかんじずに続けていた
食べ方は、目玉焼きに塩をかける、という方法だった。

だから、ぼくはかなりの年齢に達するまで、
その食べ方になんの疑問もかんじていなかった。
この世のなかにおいて、ぼくらが目玉焼きをたべる方法に
塩をかける以外の選択肢が存在するなんて予想だにしていなかった。

しかし人生は、好むと好まざるとにかかわらず、人に変化を要求する。

ある日、目玉焼きに塩をかける行為に
なにげなく愛想がつきていたぼくは冒険をした。

それは、そのときの自分にしてみれば、
過ちをみずからおかすような行為だった。

ぼくはいつものように惰性で塩をとることをやめ、
そのとなりに雄雄しくたつソースに手を伸ばし、それをかけたのだ。

ソースがかけられた目玉焼きを食べたときのあの衝撃。
いままで信じていた自分のなかの常識が、音もなく崩れていくあの感覚。
ぼくはそれを忘れられない。

ソースをかけた目玉焼きはうまかった。
そこには、それまでみていた目玉焼きの素朴な一面ではなく
大人びた欧米の女性をおもわせる表情が存在した。

それは、みずからの常識をうちやぶり、既存の方法論に依存することなく
変革をもとめたぼくにもたらされた目玉焼きの新しい魅力だった。


ぼくらの身の回りには、さまざまな方法論やさまざまな常識がある。
いまの状況にさほど不満がないにしろ、もしさらなる可能性が
あるのであれば、それを味わってみたくなる。

だからぼくは、無意識的に、ときに意識的に自問するのだろう。
「さらにおいしい食べ方があるのではないだろうか」と。