2009年07月ヨーロッパ旅行 旅立つ前
2009年07月07日から同月22日までヨーロッパへ旅にでかけた。学生時代の女友達がドイツで結婚式をあげるからというのがきっかけだったのだけど、ついでだから行ったことのない場所をおとずれてみようとおもった。
日本で働く30代の男性なら最初におもいあたる疑問は、まとまった時間をどうやって作ろう?だろう。さいわい、個人でささやかに生計をたてているだけなので、なんとか16日間という(日本の30代男子としては)比較的ながい休みをつくりだすことができた。この件にかんしては、おおくの人の協力と理解がなければ実現しえなかったことなので、しかたないなヨーロッパにいかせてあげよう、と予定を調整していただいたみなさまには本当に感謝している。
二番目にうかぶ疑問は、費用はどうしよう?だろうか。これに関しては男の一人暮らしということで、少ないながらにたくわえがあったので、それをヨーロッパ旅行にあてようとおもった。話はそれるけど、個人で働いているものにとって、自分を教育したり成長させたりするのも自分の仕事なので、ヨーロッパ旅行を見聞と見識を広げる研修のようなものだと考えれば少々の出費は許容範囲だとおもった。とうのはもちろん方便で、ただたんに面白そうだから旅行にいきたかった。それだけである。なにごとにも必要なのは、よい言い訳である。そう、女の子をくどくときみたいに。
というわけでヨーロッパ旅行に16日間行こうと決めたのだけど、どこにいきたいとかなにをしたいというのがまったくなかった。一応仕事に関しては熱心にやっているつもりだし、自分の好きなことに関しては調べつくす性格だと自分のことをとらえているんだけど、この旅にかんしてはまったく下調べする気になれなかった。
結局、往復の飛行機と5日間ヨーロッパの鉄道を自由にまわれるチケット、友達の結婚式が行われる日、そして最初の宿だけきめて旅にでた。ほかのことは旅先できめよう。そんなふうに軽く考えて。
いま思いかえしてみると、その無計画さは、計画的におくっている人生や日常生活へのささやかな反抗のようなものだったのだろう。つまり、おおげさにいうと日常の外にでたいということ。
もうひとつ抱いていた疑問がある。それは、なにを基準にして幸せを考えればいいのだろう?とういこと。あんまり幸せとか幸福とかいう単語をつかうのはすきじゃないんだけど、まあわかりやすいのでつかっておく。どちらの方向に進んでいけば、いいなーたのしいなー、と時間をすごせるか、それについてつねづね疑問を抱いていた。
日本はいわずもがなサブプライム・リーマンショックなどの金融恐慌におそわれ、連日、不況100年に一度の不況、などの文字を多数目にした。報道や世の中は大慌ての様子だったけど、そんなわかりやすい事象がおきる1年か2年前にはすでに、資本主義が崩壊とまではいかなくても、形をかえることはうわさされていたし、すこし時代の流れに敏感なひとなら、それらは別段驚くことがないできごとだった。一回目の恐慌が起きる前には、金融の歴史や恐慌の周期性、金融商品の発展、くらいまでは調べがついていた。
社会主義が倒れ、資本主義のひとり勝ちかとおもわれたが、資本主義もそれ自体に矛盾を内包したシステムで、その矛盾があらわになって、現在のような状況をつくっている。それらの主義を引っ張るのは経済学者や思想なわけだけど、今まで世界を牽引してきたグローバリズム、ミルトンフリードマンの新保守主義が立ち行かなくなった、もしくはとてもうまく格差、階級社会をつくるようになった(これに関しては崩壊なのか強化なのかどちらの説が正しいのか自分の態度を決めかねている)という状況をみて、簡単にまとめてしまうと、社会のシステムが変わりつつある、ということを肌で感じていた。
社会のシステムがかわるということは、こっちが幸せですよ、そのためにこうしましょう、という方法論が変わるということを意味するとおもうのだけど、それを一回、日本というシステムの外から眺めてみたいという欲求もあった。
なぜかというと、これからどのように生きていくのか自分で判断して決めたかったから。時代がどうなるのか知りたかったとうのもあるし、その時代にあわせるのか、あわせないのかも含め自分で選んで決定したかった。その判断基準としてマスコミは一方的な情報しか流さないので信用できないし、自分の欲求すらコマーシャルや他人の価値観によって刷り込まれてしまっているので、これも信用できない。なにが正しくてなにが正しくないのか?いままで受けてきた教育、善悪の判断、モラル、道徳、よい生活のイメージ、親のいうこと、友達のいうこと、社会にもとめられること、これらすべてを疑いはじめたからだった。
加えて、能率主義にも疑問をかんじていた。時間をうまく使えだの、計画して実行して反省するんだとかそういうこと全般。ライフハックとかそういうものも含めて。もちろんそれらは現在仕事をするうえでは有益だし、自分でもよく利用する考え方だけど、なぜそんなことをしなければならないのか?とかんがえると途端に説得力を失う主張なのではないか?とかんじていた。
なぜ?能率的であらなければならないか?なぜそれがしたいのか?なぜ早く達成したいのか?深く深く質問していくと、答えはきまって、幸せになりたいからとか、満足したいから、というシンプルなものになる。
気の置けない友人と話しているときや、自分の愛する人と少し遅めの午後にまどろんでいるとき窓からいい風が入ってきた、このようなときに感じる幸せは本物だとおもえるのだけど、なぜその幸せをすてて働いたり、競争したりしなけばならないのか全くわからなかった。何々がほしいからという理由でたくさん働いたり、数字を追ったり、そのポジションがほしいからといって努力したりといったことをすることのおかしさに気づいた。つまり、それは目的地にすでに到着しているのに、それに気づかずに、ゴールはどこだ?と探してゴールから遠ざかる行為のようにかんじれた。
というようなややこしいくてどうでもいいことをつらつらと考えながら、ヨーロッパ旅行がはじまった。